「逃げた奴を探せ!」
外の通路の奥から怒鳴り声が響いてきた。どうやら一旦まいた追手が戻ってきて、一室一室聞き込んで回っているらしかった。
二人は硬直して見詰め合う。征士が無表情に戻る。
足音は段段近づいて、ついに当麻たちの個室の前で止まる。
ドンドンドンドンドンドン。
当麻がビクッと身を竦ませる。当麻は征士を見上げた。征士は当麻の頬に手を伸ばして言う。
「ありがとう、当麻。楽しかった。」
征士はうっすら笑みを浮かべる。すべてを諦めた、いっそ晴れ晴れしいほどの笑顔に、当麻は喉の奥が締め付けられる。征士は無言で
立ち上がった。
「公安局です! 捜査にご協力を!」
今にも扉を破らん勢いでノックが続く。
「開けてください!」
ドンドンドンドンドン。
「は? はあ〜? 何なんだ、一体!」
伸が目を覚ます。
「開けてください!」
「き、君、一体? とととと当麻?」
寝起きでも、当麻でない伸は、もうばっちり目が覚めた。だが、状況は把握できない。
ドンドンドンドンドン。
早く、早く開けなければ、連中は本当に蹴破るだろう。当麻は焦った。
「伸! 俺、この人助けたいんだ!」
「凶悪犯が脱走したのです!」
伸は背の高い征士をまじまじと見上げた。
「迷惑は、かけない。邪魔したな。」
征士は伸の翡翠の目から逃れるように、扉に向かった。
「待ちなよ。」
バーンと大きな音がしてドアが開かれる。
「公安局です。捜査にご協力を。」
いかにもといった風采の男が数人入り口に立ちはだかっていた。
「凶悪犯っていうのは僕のことかい?」
あけてみればそこには、伸が一人で優雅に紅茶を啜っているだけだった。
「中から話声がしたぞ。」
「ちょっと見させてもらいますよ。」
伸が答える間もなく、男たちは畳み掛け、勝手に入って探し始めた。
「どうぞご勝手に。」
「待ちなよ。」
伸がそう言うと、征士はゆっくり振り返った。征士が動くと、周りの時間は止まるようだった。
「助けて、あげないこともないさ。」
どうも征士と伸は相性が悪いらしい。間に挟まれた当麻はハラハラする。
「征士! 伸なら征士を助けられるよ。」
伸は異空間転送の資格を持っていたから。
「迷惑をかけるわけにはいかない。」
征士はドアノブにおのずから手をかける。
「君がここから出て行かれたら、それこそこっちは迷惑なんだよ。大人しく隠れていてくれないかい。」
「すまない。」
「得体の知れない君のためにやってやるんじゃないよ。当麻が頼んだからだ。」
「な、伸なら何とかなっただろ。」
当麻は満面の笑顔だ。
「ここは、どこなんだ?」
「宇宙のどこかじゃないかな〜。」
二人は宙に浮いた状態だ。こんなに広大な空間に放り出されても、当麻は一向に恐怖心というものが沸かないらしい。
「征士も、宇宙に出るのは初めて?」
「いいや。何度か放り出されたことはある。」
「ああ。追われているんだったね。」
「そうだ。」
「それで、どこに行くつもりだったの?」
自分の生まれた場所から遠く離れて。
「………地球。」
「マジで? 俺も地球に行くとこなんだぜ。野蛮な未開星らしいぞ。」
「青くて、綺麗な星だった。……そうだな……、お前の髪の色のように輝いていた。」
一度、行ってみたかった。
「月という衛星があって、私の生まれ故郷にそっくりだった。」
当麻は征士にぶつかるようにキスをした。
唇から相手の思考が流れ込んでくる。
――帰りたい!
でも、もう戻れないところまできてしまった。
当麻は、征士の激しい感情に押し流されそうになる。
――この人の絶望は、宇宙よりも広い。
「……当麻……?」
征士は顔を離して、当麻の顔を不思議そうに覗き込む。当麻の頬にはいつの間にか涙が伝っていた。征士はそれに触れる。温かかった。
自分より何より。
「お前が悲しいと、俺も悲しくなるんだ。お前がそれに気がつかないと、俺はもっと悲しくなる。」
当麻は俯いて、瞬きをする。濡れた睫毛の先から雫がまた一滴、一滴と宇宙の闇の中に消えていく。
征士は、優しく涙を拭った。
生まれて初めて、人のために何かをしてやりたいという気分になった。
――自分は、この感情を持てなかったがために、故郷を追われてきたのに。
会ったばかりのこの少年にすべて覆されてしまった。
「私も、当麻がいつまでも泣いていると、泣きたくなる。」
当麻は、涙のたまった目をパチクリさせた。
「地球へ行くと言ったな。」
「うん。」
「これは、礼だ。受け取れ。」
征士は黒いコートの裾を翻すと、当麻を抱き寄せた。見る間に、先程まで立っていた場所が後方彼方に消えていく。
「ああーっ、わし座だーっ。」
当麻が歓声を上げる。征士は宇宙のどこへでも飛んで行けるが、宇宙遊泳は危険なので実際は禁止されている。
「あれが、南十字星だ。あれを越えたら銀河に入る。しっかり捕まっていろ。」
当麻はぎゅっと征士の腰にしがみついた。
「あの赤いのは?」
「サソリの心臓だ。」
他人のために命を捧げることを望んだ蠍。確か、あの蠍ももともとは他の小さな虫を食べることで生き延びていたのを、
改心したのだった。征士は思い出した。
「綺麗だね。」
人のために、自分を犠牲にできたとしたら。
「そうだな。」
自己満足でもいい。征士は心からそう思った。そしてできることなら、そう自分に思わしめてくれた当麻のために何かできればいいと
願った。
「征士、俺きっと地球でお前に会いに行くよ。」
「待っている。私はいつも月を見上げているだろう。」
「大丈夫。きっと、時間が経てば、みんな許してくれるって。」
「……そうだな。」
征士は笑顔を作った。これ以上ないというぐらいきれいな笑顔を浮かべた。そして、当麻の顎を持ち上げて、唇を落とした。
「当麻ってさ、結構マザコンだよね。」
「ごーめーんってばー。」
晴れて地球勤務となった当麻は、あれから毎日毎日伸に苛まれ続けている。その上、今日も満月だ。
勤務をサボっての逢瀬となれば、伸の嫌味もピークに達する。それでも、当麻は懲りずに、実は割と
近くに住んでいた征士のもとに酒を携えて会いに行く。
会う度に、あんなに綺麗で神々しい笑顔に出迎えてもらえるのだ。もう、やめたいとは思えない。
なんだかんだ言っても、毎月ウキウキと出掛ける当麻は本当に楽しそうなので、伸も禁止令を布いたり
はしない。
「征士君に宜しく言っておいてね。」
「了解。伸にも宜しくって言ってたよ。」
直接会えばいいのにという当麻に伸も征士も苦笑する。
「それじゃ、行ってくるね。」
「気をつけて。」
意味深長な伸の笑顔に首を傾げつつ、当麻はコートを羽織って外に出た。