初 恋
「なあ、お前の初恋っていつ?」
それは土曜の昼下がり、当麻は居間のソファーに身体を埋めながら尋ねてきた。
その時、私は当麻のためにコーヒーをいれている最中だった。
「14才の夏だな。」
即答すると、やはり即答された。
「あっそ。」
自分から聞いておいて、その反応はないのではなかろうか。
そう思ったが、ちらりと見えた横顔がわずかに赤くなっていたので、一応私の意図は伝わったようだ。
私の初恋、それは今も続いている。
「お前はどうなのだ?」
いれたてのコーヒーを持って、当麻の隣りに行く。
当麻は手にしていた手紙を、無造作にテーブルの上に放る。
ちらりと見えたその手紙の差出人の名は、女性のものだった。
誰なのだろう?
そう思わずにはいられなかったが、あまり根掘り葉掘り聞くのも躊躇われた。
昨日の夕方速達で届いたそれ。
昨晩午前様で帰ってきた当麻は、今日も昼になろうかという時間にやっと起きてきてたった今それを開いたところだった。
「俺……?そうだなぁ………」
当麻は私からコーヒーカップを受け取りながら、考えるようにした。
「中1の時かなぁ……」
私は口にしたコーヒーを吹き出しそうになった。
初耳である。
私に出会う以前に当麻の好きだった人間。
気にならないわけはない。
「なに?やきもち嫉いてんの?」
当麻はにやにやしながら、私の顔を覗き込んできた。
「そういうわけではないが……」
「気になるんだろ?」
重ねて言う当麻に、仕方なく肯く。
「そうだろう、そうだろう。」
当麻はうんうんと肯いた。
私は当麻が口を開くのを待つ。
「教えるかボケ。」
当麻は一言そう残すと、さっさと自分の部屋へと行ってしまった。
後に残された私は、しばらくそのまま動けなかった。
「初恋ねぇ〜」
俺は自分の部屋へ戻ると、ベットの上に仰向けに横になった。
天井をぼんやりと眺めつつ、あのおかしな奴を思い出す。
「俺って昔から、変なの好きだったのかな……」
異様に元気だったあの女。
『羽柴〜』
クラスの中で唯一、物怖じせずに俺に話しかけてきた。
『あんたほんまあほやなぁ〜』
IQ250の俺に、そんなことを言う唯一の奴だった。
『いっくら元の頭がよくたってなぁ、使い方まちごうてたら意味ないやん。』
妙に説得力ある口調で、適当なことをほいほい言ってた。
『あんた、そないにぼーっとしとったら、すぐに死んでまうで。』
決まって最後に、そう言っていた。
「この前会ったのはいつだっけ……?」
記憶をたどると二年前、成人式の日だったか。
晴れ着に身を包んだあいつは、いっぱしの女に見えた。
『なんや、羽柴やないの。』
周りをたくさんの友達に囲まれて、それでも目ざとく俺を見つけて声をかけてきた。
昔は随分と体格が良かった気がするのに、久しぶりに会ったアイツは俺よりずっと小さくて、クラスの不良にまで怖がられてたのが嘘のようだった。
『あんた、えらい良い男になったやん。』
そういうお前はいい女になったなんてお世辞でも言ってやれば、本当にいい女みたいに笑ってみせた。
『ほんま、いい顔しとるわ。昔のぶーたれが嘘みたいやね。』
からからと笑うその姿は、そこだけ昔にトリップしたみたいに変わってなかった。
『良かったわ。……死ぬ前にあんた、幸せになれたんやね。』
昔と変わらない適当な話の後、アイツはそう言った。
はっきりと言葉にはださなかった俺の、言葉の端から征士の存在をかぎとって。
『ほな。うちも思い残すことあらへんなぁ。』
そう言って笑ったから、俺は昔から思っていた『忠告』を一つ言ってやった。
いつもからからと笑いながら死にまつわる言葉を口にするアイツに。
そしたらアイツは珍しく困ったような顔をして、『こりゃ、羽柴に一本とられたわぁ』と言った。
後にも先にも、俺があの口の減らない女を言い負かせたのはあの一度きり……。
「せやから言ったやないか。あほが。」
文句を一つ口にして、俺はベッドの上でごろりと寝返りをうった。
「当麻。でかけるぞ。」
私が当麻の部屋のドアをあけると、当麻はベッドの上に横になっていた。
壁の方を向いているのでその顔は見えないが、当麻が眠っていないことはわかっていた。
「寝たふりはよせ。早くしないと間に合わなくなる。」
私はベッドの側まで行くと、横になっている当麻の身体の上に黒いスーツを投げた。
当麻はやっと身体を起こすと、私を下から睨み付けてきた。
「すけべ。お前、あの手紙読んだな。」
「あんなところに開きっぱなしにしているお前が悪い。」
居間に無造作に投げられた手紙、どうしても気になって読んだ文面は遺書だった。
『冗談みたいな話やけど、うちは今死にそうや。』
そんな一文で始まった手紙。
便箋の罫線からはみでんばかりの堂々とした文字で、それはどこか誇らしげですらあった。
そして、一枚きりの便箋と共に入っていた葉書は、葬儀の知らせだった。
ワープロ打ちのそれは、便箋の文字に比べると貧相で、こんな豪快な文字を書く女性の葬儀を知らせるには不適切な気がした。
「早くしろ。お前の初恋の人なのだろう?」
「……………」
私の言葉には応えず、当麻は無言で私の持ってきた黒いスーツに着替え始めた。
すでに私の方は準備ができていて、当麻の部屋の戸締まりを確かめた。
「……黒いネクタイなんてない。」
当麻が着替えの手を止めて、ぽつりと言った。
事実をそのまま伝えるだけの当麻の言葉は、けれどそれ以上の意味を持っている。
しかし、それを当麻はあえてはっきりさせたいなどとは思っていないだろう。
だから私も、表面的な言葉で応える。
「私もだ。……途中で買っていけばいいだろう。」
まだ若い私たちは葬儀には無縁で、黒いネクタイを持っていない。
そう。
これは明らかに早すぎる死。
私たちのネクタイのないワイシャツの襟元が、彼女の早すぎる死を示している。
私たちは降り始めた小雨の中、葬儀場へ向かった。
「来なきゃよかったな……」
葬儀が終わった後始まったアイツを送る会とやらを抜け出して、俺は征士と二人で駅までの道を歩いていた。
雨はもう止んでいて、手に持った傘が足の横でぶらぶらゆれて邪魔だ。
「やっぱ、若い奴の葬式なんてろくでもねぇよ。」
会場の至る所で聞かれる泣き声は、すすり泣きの域をでていて、ほとんど絶叫に近かった。葬儀の場は、思いもよらなかった死に嘆き悲しむ人々によって満たされていた。
そんななか俺は、涙もなく淡々と焼香をすませてきた。
「ああいうとこでこれっぽっちも涙がでないと、自分が酷い奴みたいに思えるよな。」
昔行ったじいさんの葬儀は、もっとずっと静かで、優しい小雨のような悲しみの中、どこか納得したような雰囲気すら漂っていた。
そんななかで俺は、自然と泣くことができた。
どちらがより悲しむべきものかと問われたら、それは若いアイツの葬儀の方が、ずっと悲しむべきものであろうと思えるのだが。
「必ずしも涙の量と悲しみの大きさが比例するわけではなかろう。」
征士は俺と並んで歩きながら、足元を見たままそう言った。
いつも危なっかしいぐらい前を向いて歩くこいつが、どうやら葬式の雰囲気にあてられたようで、なんだか少しおかしかった。
(こんな時笑うのは、ホントは不謹慎なんだろな?)
結局棺桶の中のアイツを見ることをしなかった俺にとって、思い出すのは最後に『ほなな』と言って分れ際笑ったアイツの顔だ。
記憶の中のそれに向かって俺は話しかけてみる。すると、
『シケた面されるよりは、なんぼかましよ。』
アイツの言いそうなセリフが頭に浮かんできて、つい吹き出してしまった。
そうして征士が少し驚いたように目を見張る隣で、俺はそのまましばらく腹を抱えて笑ってしまったのだった。
「………はあ、おかしい…。なあ、征士。ホンマ、アイツおかしな女やったん。」
どうにか笑いをおさめて、俺は顔をあげると征士に言った。
すると征士はいつのまにか優しい目で俺を見ていて、今度は俺が少々驚いた。
きっと不謹慎だとあきれられていると思っていたから。
「個性的な女性ではあるな。この若さであのように堂々とした遺書を書けるのだから。」
征士の言葉に俺はアイツからの、正真正銘、最後の手紙を思い出す。
やったらでかい字は、アイツの態度そのまんまで、見てるだけでおかしなものだった。
「全く頭のおかしい女だったんだぜ?うちの両親が離婚したこと知ったらさ、『あんた帰れる場所が二つあってええなぁ』……なんて言うんだぜ?」
確かあの時俺は、ポジティブな思考もそこまでいったら犯罪やな、と思った気がする。
それでも、確かにアイツのあの一言に俺は思わず笑ってしまったのだ。
「いっつも俺に将来の夢を聞きたがってなぁ。」
俺はその問いに決まって『別にない』と答えていて、そうするとアイツがあの決めセリフを吐くのだ。
『あんた、そないにぼーっとしとったら、すぐに死んでまうで。』
思えばあの言葉を言う時、アイツはいつも怒ったような顔だった。
あれはアイツ独特のフリだと思ってたけど、実は案外本当に頭にきていたのかもしれない。ちっとも真面目に生きようとしていなかった俺に対して。
「そのくせ、じゃあお前の将来の夢は何だ?って聞いたらさ……『長生き』とか言うんだぜ?」
俺はあの頃アイツがどんな気持ちでその夢を口にしていたかなんて、全然気づかなかったけど。
「で、長生きして何するんや?って聞いたら、『幸せになるに決まってるやん』とか言ってさ。偉そうにしてるくせに、ちっとも具体的な夢じゃねぇんだよ。」
俺はそこまで一気に喋ると、一息ついた。
ただでさえ思いきり笑った後だから、息が苦しくなって膝に手をついたまま何度か深呼吸をした。
「……では、彼女の夢は叶ったのだな。」
その突然の征士の言葉にびっくりして顔をあげると、征士は空を見上げていた。
つられて見上げると、雨が止んで雲がとぎれた夜空に星がわずかに見えていた。
「叶っちゃいないよ。結局アイツは22歳までしか生きられなかったんだから。」
女の平均寿命が80に届くという時代。
その四分の一をわずかに超えるほどしかアイツは生きられなかった。
「『二年も余計に生きた』」
それはアイツの手紙にあった言葉。
征士は空を見上げたまま、きっぱりした声でそれを復唱した。
「『二年も余計に生きた』……二十歳までしか生きられないと言われていた彼女にとっては、それは十分『長生き』になるのではないか?」
俺は街灯のかすかな光に照らされた征士の横顔を見つめたまま、その続きの言葉を聞いた。
「……お前、それ本気で思ってんの?」
思わずそう尋ねれば、征士はこちらを向いて自信満々に微笑む。
「無論。……人の価値判断は、人それぞれだ。命の長さとて、これ以上でなければ十分ではないとは言えまい。」
いっそ都合のいいような征士の解釈は、けれど、あの能天気な女がしそうなことだった。
「……そうだな。ま、もう一つの方はあんだけでかでかと書かれちゃ否定できねーしな。」
『今、うちは幸せやで。』
遺書の最後の一文はそう締めくくられていた。
一際大きな文字で。
もしかしたらそれは気の強いアイツの精一杯の虚勢だったかもしれないけれど……。
うちが、そないなあほらしいまねするかい!?
瞬間、見上げた空のどこかでアイツが怒ったような気がして、俺は思わず首をすくめた。
思えばアイツは俺の初恋の相手でもあったけど、母親以外で初めて怖いと思った女でもあったのだ。
「……せやけど、やっぱお前あほやわ。」
きっと今は上にいるだろう(俺らの足下になんて大人しくいるたまじゃない)アイツに向かって俺は笑ってやった。
そう、いっつも俺をあほ扱いしていたアイツへの仕返しや。
「死ぬ死ぬなんて、あんま言うとるとホンマ死ぬで。」
立ち止まっていた場所から歩き出す。
征士はそんな俺の隣りを黙ってついてくる。
「…って『忠告』してやったやろが、あほが。」
結局無駄になってしまったその『忠告』に、俺は足元の小石を思い切り蹴飛ばした。
「当麻、今もお前は幸せか?」
その夜家に帰ってから、自分の部屋へと直行する俺に向かって征士が声をかけた。
俺はすぐに征士があのことをきいているのだとわかった。
『羽柴、今もあんたは幸せなん?』
全体としても短い手紙の、その最後から二番目の本当に短い一文だけが、俺のことをきいていた。
あとは本当に自分のことだけで、それはいつも一方的に話していたアイツらしい。
「幸せか?」
ゆっくりとそこだけ繰り返した征士に、俺は自慢の笑顔をみせる。
「もちろん!」
「……そうか。」
征士は優しく微笑して、俺の髪をなでた。
なぐさめるようなその仕種に、その時初めて涙が一粒零れた。
とっくに消えていた想いでも、それはどこかに降り積もっているものだから。
今愛する人が隣りにいても、
「では最後までそのままで、いつか彼女に会う時には自慢してやらねばな。」
征士はさりげなく指先で俺の涙の粒を拭ってくれた。
こうやって俺の悲しみに寄り添ってくれる征士がいる限り、俺はきっと幸せなんだろう。
END/征×当話に戻る?
コメント:なんだろねコレ(苦笑)?
なんつーか遠くなった知り合いの死というのは、不思議なもんっすよね。
ずっと続いて行くと漠然とおもってたものが、急にとぎれるからさ。
本文中のアイツが書いた遺書に興味のある方はここからいってちょうだい。