征士の家に来てから4日目の朝、トウマはご飯のたけるいい匂いに誘われて目を覚ました。
まだぼんやりとした頭のまま、とてとてと匂いのする方へと向かう。
板の廊下を進み庭に面した和室の前に来ると、タイミングよく障子が開いた。
「おはよう。トウマ。」
目の前には朝日を受けて輝く金色の人。
トウマはいつもの寝起きの機嫌の悪さが嘘のように飛ぶのを感じた。
「おはよう。征士。」
柔らかな朝日を背に蒼い天使が微笑む。
征士は自らの幸福を噛み締めた。
「さあ、朝食ができている。顔を洗ってこい。」
「うん♪」
トウマは嬉しそうに洗面所へと飛んで行く。ちなみに、この場合トウマは文字どおり飛んで行くのであって、その足元は床についていない。
(わかってはいるものの、天使とは不思議なものだな。)
征士はその後姿を見ながらそんなことを考える。
トウマの背中からは、縮小版の羽(必要時以外は省エネ(?)するらしい)が生えていて、ぱたぱたと可愛らしくはためいていた。
(しかし、一体どうしたものか。)
征士はトウマが洗面所の扉の向こうへ消えると、腕組みして考え込んだ。
この3日間で二人は随分と親しくなった。
たまたま征士以外の家族が温泉旅行に行っていたため(征士は部活の関係で一人おいていかれたのである)、二人っきりの時を過ごすことができたのもその一因である。
けれどそれも今日の昼までのこと。
昨日の夜、予定通り明日(つまりは今日)に帰るとの電話が征士の母からあった。
(トウマがうちの家族に会ったら、何を言い出すやら・・・・・・)
実は伊達家の皆様方は一人も漏れず美形ぞろいなのである。
ほんのわずかに一緒にいただけで、トウマの面食いは十分なほどわかっている征士である。
今まではそれがプラスに働いていたが、他にも征士と同じぐらいの美形が現れれば、トウマの気持ちがどう転ぶかなどわからない。
しかし、本来勝負にでるべき昨晩、結局征士は隣りの布団ですやすやと眠るトウマに手をだすことはできなかったのである。
(私としたことが全く不甲斐ない・・・・・・しかし、どうもあれを見ていると・・・・・・)
「征士?」
征士は声をかけられて慌てる。
トウマがすぐ側に来て征士を見上げていた。
征士を見上げてくるトウマの大きなたれ気味の目は、文字どおりきらきらしていて、一点の曇りもない。
そしてこの3日間、トウマのその無邪気な瞳の前に手をだしかねている征士であった。
「どっか痛いのか?」
征士の眉間によったわずかな皺に気づきトウマが征士の身体をぺたぺたと確認するように触る。その様子はちょうど子犬がじゃれつくようで、征士は知らず口元に笑みを浮かべた。
「いや、何でもない。さあ、朝食にしよう。」
「おうっ!今日も食べるぞ〜!」
異常に大食漢な天使は、征士の一言でぱあっと瞳を輝かせる。
まったく色気より食い気なお子様天使である。
征士はトウマにばれないようにそっと小さくため息をつくと、トウマの背に腕をまわして部屋の中へと招き入れようとした。
と、その時、
「ふぎゃっ!」
トウマが妙な声をあげて飛び上がった。
「・・・・・・・・・・・っっっっ!」
トウマは征士の側から、一気に部屋の中、反対側の壁際まで飛びずさった。
そこで自らの背中に手をやったまま、真っ赤な顔をして征士を見ている。
「・・・・・・どうしたのだ?」
征士は、トウマの背に触れた時のまま左手を宙に彷徨わせて尋ねた。
確かにトウマは接触に対して敏感なところがあったが、この反応は異常だった。
「トウマ?」
見るとトウマの瞳には怯えすら浮かんでいて、征士はびっくりしてしまう。
出会った初日にいきなり泣き出して征士を困らせたトウマだったが、それ以降は(本来のトウマを知っている者からすれば驚異的なことに)だいたい機嫌良くにこにこしていることが多かったのだ。
「トウマ、いったいどうしたというのだ?私にも分かるように教えてはくれまいか?」
瞬きすることも忘れたかのようなトウマの様子に、征士はあらためてトウマが天使で自分が人間だと言うことに思い知らされる。
この3日で、征士が最初に抱いていた儚げで美しい天使のトウマのイメージは大幅に変化し、トウマはもっと身近な存在だというように思い始めていた。
けれどこういうことがあると、征士は無性に歯がゆさを感じる。
所詮、天使と人間では違う生き物なのだろうか・・・・・・と。
「トウマ・・・・・・」
思いを込めてそう呼べば、トウマはわずかに瞳を揺らす。
その唇が何かを言いかけて、そして閉じられた。
「・・・・・・・・・・・・なんでもない。」
結局、トウマは消え入りそうな声でそう言って首を振ると、征士が用意した膳の前に敷かれた座布団の上へポスっと腰をおろした。
口をきゅっと引き結んだ様子は、これ以上何も言うつもりはない、という意志を示していて、征士も諦めてトウマの向かいへ座ることにした。
「いただきます。」
「・・・いただきます。」
一方トウマは、征士に教えられたとおりに手を合わせてぺこりと頭を下げながら、途方にくれていた。
(どうしよう・・・・・・)
不器用な手つきで箸を動かしながらも、その意識が自然と自分の背中の羽へといってしまうのを止められない。
普段は熱をもたないそこが、先刻征士に触れられてからじんわりと熱を持っている。
天使にとって、それが意味することはたった一つ。
トウマの頭は必死にそれを否定しようとしていた。
(そんなはずない・・・・・・征士は人間なんだから・・・・・・・・・)
その時、トウマの上の空の箸から、里芋の煮物が焼き魚の皿に落ちた。
けれどそれにすら気づかずにトウマは何もない箸の先を口に運ぶ。
歯に触れた箸の堅い感触に、トウマはやっと煮物を落としたのに気づき頬を紅くした。
「やはり箸は使いにくかろう。スプーンかフォークの方がいいな。」
征士はそう言うと、トウマが何か応えるより早く腰をあげて、台所へととりに行ってしまう。
ここ3日間、人間の世界に慣れないトウマのために、征士は労を厭うことなくその世話をしていた。
「・・・・・・・はぁーーーぁ」
トウマは征士の後姿が廊下の角を曲がって消えるのを確認し、大きなため息をついた。
「羽触られてこんなになるなんて、これじゃまるで・・・・・・」
その続きの言葉を飲み込んで、トウマは唇を噛んだ。
結局この後、征士とトウマはぎくしゃくしたまま半日を過ごすことになり、そしてそんななか、予定通り昼過ぎに征士の家族たちは帰って来たのである。