「はい、じゃあ皆さん、今日はここまで。片付けに入ってください。あ、えーと、イーゼルは
そのままでいいです。」
チャイムの鳴る10分ほど前、羽柴先生は教室中に呼び掛ける。20人弱の生徒たちは
返事をして、ごそごそと銘々の片付けを始めた。
「伊達君もお疲れ様。次の授業に遅れないように着替えなさいね。」
当麻は、教壇の上で不自然なポーズをとっていた征士に、ニッコリ笑いかける。
そして、いつもはかけている眼鏡を外しながら、当麻は準備室に向かう。
征士が何か言おうとすると、そこに女生徒が自分の絵を持ってきて当麻を捕まえる。
当麻は眼鏡を掛け直す。
「…うーん、そうだね……、野上さんの絵は、一つ一つはいいんだけど、全体的なバランスを
もうちょっと頑張った方がいいね。」
征士がのろのろとワイシャツに袖を通す間、当麻は懇切丁寧に、構図のとり方を説明した。
「伊達君、ちょっと失礼。……ほら、伊達君の肩幅は、頭の2倍はあるよね。それに、手と足も……
ありがとう……そう、実際はもっと長くて太い。」
当麻が生徒に教えるために、征士は黙って首を傾けたり、もう一度立ち上がったりしてみせた。
「…じゃ、最初から書き直した方がいいですか………?」
「そんなことはないよ。だから、さっき言ったようなところを2、3直して、絵、全体に
気をつければ。ほら、この表情とか俺は好きだな。変えない方がいい。」
沈みかかった意気を、当麻に救い上げられ、女生徒は満足したように去って行った。
「ありがとう。」
少しだけはにかんで当麻は礼を述べる。
「かまいません。」
モデルの征士はにっこり微笑んだ。
当麻は思う。
どうせこの人の絵を飾るぐらいなら、本人をショーケースに陳列してしまえばいいと。
タイトルは『和食の好きな大天使』。作者は万物の創世主、或いは仙台にいるとかいう
彼の御両親。
でも、今、この笑顔は自分だけのものだ。
手放しでは喜べない幸福が、既に4ヶ月経つ。複雑な面持ちで当麻は今度こそ準備室に
向かった。次は空き時間だ。ようやく自分の絵にとりかかれる。展覧会が近いというのに、作業は
遅々として進まない。寝る間を惜しんで描くのだが、唯一の救いはアイディアだけは、
泉のように涌き出てくることだった。
――こんなに時間がないときに限って、色々思いつくんだよなー。
当麻は、やかんに水を汲み、自分で持ちこんだガスボンベ式のコンロに火を入れた。
沸騰するまで、ずっとつけっぱなしだっただるま式ストーブの前にしゃがみ込む。
炎がチリチリと音を立てている。ストーブの上には固まった油絵の具を溶かすための湯が、たらいに
張ってある。無頓着な羽柴先生ではあるが、流石に、チューブがぷかぷか湯せんにかけてあった、その
湯を飲む気にはなれない。
冷えた両手をかざしながら、紅茶のパックがきれたことを思い出した。コーヒーにしよう。
絵の具の匂いと混ざると気分が悪くなるけれど。
「危ないっ!」
当麻はウトウトしかけたところを、一気に現実世界に引き戻された。
「…征士………。」
当麻はしゃがみ込んだまま、ストーブに倒れかかっていたのだ。当麻はぼんやり征士を見上げる。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ……ありがとう。」
当麻は立ち上がった。やかんの湯が沸いたので、当麻はざるに伏せられていたカップを引っ繰り返す。
「お前、授業は?」
「やめだ。」
征士は、当麻が次は授業のないことを知っている。
「やめ、じゃない。ちゃんと出なさい。」
あんな風に助けられたあとに年長風を吹かせても、まったく効果はない。
「私は当麻といたいんだ。」
「俺は忙しいからお前の相手はしてられないよ。」
当麻は自分の分だけコーヒーをつぐ。
「絵を描くのだろう? 私は絵を描く当麻を見ていたい。」
「だめ。集中力が散るから。」
そこに丁度良く、休み時間終了のチャイムが鳴った。征士はニッコリ笑った。
「次の時間は近くのグラウンドでサッカーだ。もう間に合うまい。」
「……ったく……。」
当麻はコーヒーをいれてやった。征士は嬉しそうにそれを受け取った。ああ、もう、その笑顔。
当麻がそれに弱いとわかっているのだ。
――この意地悪いところが、天使、じゃなくて大天使なんだよな。
「お前ってさ、もっとクールな奴じゃなかったっけ?」
当麻は乱暴に絵の具をグチャグチャ混ぜながら声を出す。
「変わったとしたら私自身のせいではないぞ。」
「高校生にもなったら自分の性格には責任持ちなさいね。」
その言葉、全国の非行少年たちに言ってやってください。当麻こそ、二十歳代のくせに
無責任である。
「この部屋の絵はみな当麻の作品なのか?」
征士は見まわす。
「まさか! 俺が生まれる前のものもあるぜ。殆ど、生徒の作品だろうな。」
「見たらわかるのか。」
「ああ。技術云々もあるが………重ねた年齢っつーのは………やっぱ絵に出るもんだよ。」
当麻は段々征士との会話が煩わしくなってきている。文節の間隔が広がって行く。
コーヒーと絵の具、大天使様と大きな293/4×49inカンバス、湯気を上げるやかんとストーブ、
そしてムカつくほど晴れた冬の低い空。
交わす言葉はないけれど、時間がゆっくりゆっくり準備室に沈殿していく。
ガタン。
太陽の高さが変って直射日光が当たり出したので当麻は、イーゼルごと絵の向きを変えようとした。片手にパレットを持ったまま、
右足でイーゼルの脚を払い、右手で支えるものの無理があり、バランスを失う。そしてまた、ムカつくほど
タイミング良く征士が手を差し出し、「これでいいか?」と尋ねるのだ。勿論、あの笑顔付きで。
「せっかくの絵を台無しにしてもいいのか?」
征士は言いながら、当麻の描きかけの絵を繁々と眺める。
宗教画のようだった。当麻の知識は広く、キリスト教についても例外ではない。征士は、何人かいる
天使の名前はよく知らなかったが、一人だけ際立つ、その絵の主人公といっても差し支えのなさそうな
大天使がいることに気がついた。眠る赤ん坊を抱き、周りの天使たちに静かにするよう口元に
人差し指をあてている。その表情の穏やかなこと。
征士が引っ掛かったのは、その大天使は絵の中心ではなく、どちらかというと左側の奥に
狭そうに描かれていることだった。
「北窓のアトリエが持てたらいいんだけどな…。」
一緒になって自分の絵を眺めていた当麻は呟く。征士は筆の柄で髪を耳に引っ掛ける当麻を見詰めた。
「ま、電気をつければ、どうってことないけどさ。」
さっさと割り切ってまた作業に没頭する。
当麻は気難しさではいっぱしの芸術家でも敵わないほどであるが、執着のなさにはきっとビル・ゲイツ
ですら敵わないほどのドライな性格をしている。あまりに情緒がなく、ときに不用意な言動で他人を
傷つけることがあるので、人付き合いを極端に避ける当麻は、最近、征士にも心を閉ざしている。
冷たいと思う。
当麻は、征士が求めれば大抵のことに応じてくれる。でも、どんな状況でも、自分を手放さないし、
手放すことを征士にも求めない。征士はいつも突き放された気がして、余計に思いが激しくなる。
――心が読めない。
当麻の心の中は闇だらけで、ときどきポツリと洩らす言葉は、彼の孤独な過去を反映しているようで、
まるで冬の枯野のようだった。
――その当麻の描く絵が、こんなに色彩豊かとは……。
そう思って眺めると、色を決めてはペタペタと慎重に絵の具を重ねていく作業姿は、太陽の光の中で
も更に光を放っているようにも見える。先ほどの大天使にも負けない穏やかな表情を作って、
何よりも大切そうに、一つ一つのストロークを丁寧に柔らかく、この荘厳な世界を完成に
向かわせている。
どんなに嫌なことがあっても、この笑顔を見たら吹き飛んでしまうだろう。きっと自分たちがいる
世界も、こんな風に優しい誰かに創ってもらったのかもしれない、と考えるぐらい。そして、
見ている自分も、その一員だと知らしめてくれる。
――当麻の光の領域に届きたい。
「征士、お前の誕生日っていつ?」
時刻は明け方の5時半。でもまだ暗い。征士の腕の中からするりと抜けて、突然、当麻は尋ねた。
「6月9日だが?」
「なあんだ。じゃあ、もう18歳になってるんだな?」
「そうだ。そういう当麻はいつなのだ。」
「10月10日、体育の日だぜー。」
征士はムカッした。
「では、私に出会ってから誕生日を迎えたということか。」
「えー、そうか? ……ああ、そうだな。」
「どうして言ってくれなかったのだ。」
「だって、休みの日だから、たまたま会わなかったんだろ。」
当麻はしれっと答えた。
「もういい。」
征士はベッドから下り、床に散らばる衣服をさっと身に着けると、当麻を置いて寝室を出て行った。
昼間見た絵は、見る者を誰でも受け入れてくれた。
なのに、夜は、一緒に過す、たった一人の人間すら入りこむ余地がない。
征士だって「お前は、前途ある身なんだから。」と言っては、自分と深くかかわりたがらない当麻を
責めるつもりはない。立場が逆だったら、自分も同じことだったろうからだ。それに、当麻こそ
期待の新鋭で、あんな普通制の公立高校で一介の美術教師におさまっていてはいけない人物なのだ。
離れてしまえば、当麻はあんな闇を心の中に溜めないでいられるのだろうか。
ずっと、一人で筆を持たせておけば、あのように穏やかでいられるというのだろうか。
「もういい。」
取り残された当麻は征士が最後に放った言葉をどう捉えようか思案していた。
「もういい、誕生日なんて関係ない。」
「もういい、会わない。」
「もういい、別れよう。」
「もういい、二度と会わない。」
ここまで考えて、それは無理だと当麻は頷く。何せ征士は当麻のクラスを選択しているのだから。
「もういい、腹減った。」
これは俺だ。当麻はあられもない格好で台所に向かった。
相変らず当麻が素っ裸の方がまだ良かったような格好でラーメンを啜っているのを見つけて、
先にシャワーを浴びてきた征士は目眩がした。
――こいつは、色気よりも食い気か。
あの天使の絵は、あの天使の絵は、あの天使の絵は?
「よー、征士、お前も食う?」
「朝っぱらからラーメンか……。」
「うまいぜ。」
確かにうまそうだった。インスタントなのに、当麻が食べると本当においしそうだ。
広告代理店が見つけたら、当麻はCMに引っ張りだことなるだろう。
「そんな格好で出てくるな。風邪をひくぞ。」
「今日は、部活?」
当麻は征士の忠告を無視して質問する。
「いや、3年はもうこの時期引退しているのだが…。」
腹が立つのに、つい条件反射で正直に答えてしまう。
「なんだ、車で送ってってやろうかと思ったのに。」
「また学校に行くのか?」
「ああ。あの絵を仕上げなきゃな。早くお洋服に色を塗ってあげないと、それこそ風邪を
ひいてしまうからね。それに、あいつまだハゲだし。」
当麻は、あの天使の頭髪を塗っていないことを意味しているのだが、征士は、本当にこの男は
芸術家なのか? と疑いたくなる。
言いたいことは沢山あったのに、征士は結局、当麻がシャワーを浴びている間に弁当を作ってやり、
何時に帰ってくるかも聞かずに送り出してしまった。
当麻も当麻で、征士が何か言いたそうなのはよくわかっていたくせに、
うまく交わして出て来てしまった。
――あの人は、大人だ。自分よりも、ずっと。
征士は頭を抱えた。