本当は、当麻は征士の「もういい」の続きを知っていた。
征士が自分に言いたいことが何なのかも大体想像がつく。
――でも、もう限界だ。
自分でもこんな風に飛び出してくるのは卑怯だと思う。こういうことは、一緒になるときに
互いに相手にお伺いを立てなければいけないのと同じで、別れるときだって、一方的に宣言して
去ることなどできるわけがないのだ。
――結果的に、10代の征士を振りまわしたことにはなっても…。
信号待ちで止まった当麻は、前の車のバックミラーにつけてある人形を何となく見ていた。
――将来のことを考えれば、そのうち4ヶ月を学校の先生に夢中になってた、ぐらい
何てことなくなるだろう。
当麻は責任を負いたくなかった。負ってもいいが、負いきれるとも思えなかったからである。
征士はなにものにも変え難い。
信号が青に変って、アクセルを踏み込む。
交差点の真中で、対向車が無理に右折をしてきて、当麻の進行方向を遮った。
「あっぷねーなー。」
急ブレーキをかけたために、助手席のシートに鎮座していた征士弁当が落ちかけた。慌てて戻すときに
触れた包みはまだ温かかった。
ときどき、もしも隠し通せるものなら、征士の望むもの全てをあげてもいいと思う。彼といられるのなら
自分の持っているものなど、全て投げ出せる。理性もプライドも。
――でも、隠し通すなんて無理だ。
それこそ無理そうなハンドルさばきで駐車する当麻。職員用出入口から入って、教室棟の最上階まで
昇る。そして朝日を受けた渡り廊下をペタペタ歩き、別の校舎に。突き当たりに美術準備室はある。
まずは、ストーブとコンロに火をつけて、しばらく待つ。
「今日は曇りか。」
征士は柄にもなく、日曜版のワイドショーをぼんやり見ていた。その1週間であった出来事が
順々に紹介されていく。離婚訴訟……。征士だって、もらえるものならもらいたいところだ。
征士の全てを奪っていって、つき返して、去って行く。
――弄ばれた……?
午前中は黙々と作業をしていた当麻は、腹が減って昼過ぎに弁当をあけた。御丁寧にも2食分入って
いた。紅茶のパックがいくつか入っていて、当麻は苦笑した。4ヶ月前の彼はそんなことに
気が付くような男ではなかったからだ。
――もう、あいつも子供じゃないのかもしれないな。
淋しくなってしまうのは、既に親心がついているせい。そうだ、絶対にそうだ。
午後になると、征士はさすがにテレビの前でじっとしてはいられなくなった。
まじめにクイズ番組に答えようとして、バカらしいことにようやく気が付く。
休日登校とはいえ、律儀な彼は、わざわざ学生服に着替えて学校に向かった。
征士は、当麻は今頃昼寝でもしているのではないかと考えた。昨夜は殆ど寝ていないし、あの性格だと
午前中はわき目も振らずに作業したと思われるからだ。
準備室には当麻はいなかった。丁度、用を足すとか、煙草をきらしただとかで席を外しているだけ
といった感じだった。ストーブはついたままだし、絵の具も筆も放り出したままだ。
征士はあの絵を見上げた。
瞳孔の動きが止まる。
頭が真っ白になった次の瞬間に、息を呑んだ。
ハゲ(失礼)の天使には髪の毛がふさふさと生えているではないか。それも、見事な金髪に。
――これは、私だ。
当麻にこんな風に見られているなんて知らなかった。パレットには、沢山の紫色の試作品があった。
そうだ、これは瞳の色だ。
当麻は、自分の絵をあんなにいとおしそうに描いていたのだ。
ここまで気が付くのに、征士は呼吸を忘れていたので、思わず溜息がこぼれた。ゆっくりと今度は
息を吸う。だが、吐く息、吐く息、それはすべて溜息に変わってしまう。
信じられなかった。
最初は絶対に自分の姿だと思いこんだが、もしかしたらただの当麻のイメージかもしれないとも
考えて見た。いや、それでも、この大天使は自分と酷似している。
よくよく見れば、幼子を抱く手は、大きく包みこむようでいて、節くれだっている。この大天使の
手は戦う者の手だ。
征士は自分の手を思わず見た。
骨の出具合が正しく自分のものだった。
「…あ……。」
掠れた声が、のどの奥から漏れた。
もう一度、絵を見る。
「せーじ……?」
そこに当麻が戻ってきた。寒かったらしく、また変な格好をしている。
「当麻。」
征士は、極上の笑みを浮かべた。それを見て、当麻の表情はみるみる歪む。今にも泣き出しそうになって
真っ赤になる。
「当麻?」
「見るな…!」
当麻は手で顔を覆い、そのまま踵を返して部屋を出て行こうとする。征士がすかさず手首を掴んで、
抱き寄せる。それでも、当麻は顔を隠したままだ。
「見るな、見るな、見るな、見るな見るな見るな見るな! 俺を見るな! 離せ!」
涙声で叫びながら、当麻は身をよじった。あんまり悲痛な声だったので、征士は困惑した。だが、
その手を離すわけにはいかなかった。
「見ないから落ち着け。」
征士の低い柔らかい声。そして温かくて、広い胸。大きな手が背中をゆっくりさすっている。当麻は
徐々に落ち着いた。
「……絵を……見たんだな……。」
当麻は征士の学生服に押し殺した声をしみこませた。
「…ああ……。」
内心、征士も照れくさくて何と言えばいいのかわからなかった。
それでも、何か言わなくては、と征士は少しだけ体を離して、唇を固く結んだ当麻を見た。
「当麻、私はもしかしたら自惚れが強過ぎるのかもしれない。だが、答えてくれ。もしも、
私の期待通りだったら……」
「期待通りだったら何だってんだよっ。」
「期待通りだったら……、私は……」
言葉に詰まる。言語障害にでもかかったみたいだ。征士は次の句を必死で探す。
「あーっ、もうっ! そうだよっ、俺はお前のことがどーしよーもないぐらい好きだよっ、畜生。
俺にこんなに恥かしい思いをさせやがって! 俺はお前のことが好きだ。俺を好きだと
言ってくれるお前のことを愛している。だけど、俺は、それにはこたえられない。」
当麻はそこまで言い切ると、征士から離れようとした。征士はそれを許さない。
「それで、思いを絵に託すのか? 私を無視して? 私はお前の絵を描く手段の一つなのか?」
「違うよっ。もう、こんな絵は出品できない。」
作者がこの大天使を愛していることは誰の目にも明々白々である。
そして、その大天使が征士であることも。
「切り捨てるのは簡単だ。だが、こんな絵を見せておいて別れるつもりなら、それこそ無責任だぞ。」
「お前が勝手に見たんじゃないかっ。」
当麻は本当に泣きそうだ。こんな姿は初めて見る。
「同じことだ。お前の思いを知った今、私が離れられるとでも?」
「だから余計悪いんだ。」
「大体お前は私に『前途ある身』だからとか何とか言っているが、18にもなった男に恋人がいて
何の不都合があるのだ?」
「相手に不都合があるんだよっ。」
「私には不都合ない。年上女房など珍しくもない。」
「俺はお前の女房じゃねえよっ。」
「ならばいいではないか。」
「どこがじゃ。」
更に噛みつく当麻の首筋に、征士はスッと唇を落とした。当麻がビクッとなっておとなしくなった
瞬間に、例の大天使スマイルを浮かべた。
「すべてだ。不都合からは、私がお前を守ってやる。」
当麻は不覚にも貧血を起こしそうになった。
「これで、不都合はないだろう?」
向かう所、敵ナシ! 異常ナシ! 征士さん、独走!
そして当麻はついていけなくなり、へなへなと座り込んだ。
「お前、俺と結婚でもしたいワケ?」
「当麻が望むならな。」
望めばするつもりらしい。いや、望まなくてもしそうな勢いだ。
「…………………。」
当麻は考え込む。
「……当麻……?」
「………よし、そこまで言うなら…俺も自分の気持ちに正直になってやる。だがな、覚悟しとけよ。
俺は飽きっぽくて浮気性なんだ。」
「私は、お前を飽きさせない。」
「それにすごーく我侭だ。」
「知っている。だが、お前は我侭としてはまだ小玉だ。私は姉と妹と祖父母に鍛えられてきたのだ。」
「お前の常識は俺には通用しない。」
「他の人間でも同じのようだ。」
「お前、いつからそんなに可愛くなくなったんだよ。」
口ばっかり達者になっちゃって。
「そうか、当麻は最初私を可愛いと思っていたのだな。」
当麻の方が可愛らしく赤くなる。面白い。
「私もそう思っていた。ついでに今もだ。」
当麻の口がパクパクする。さすがに可哀相になって征士はからかうのをやめた。これ以上やると、
拗ねて何を思いつくか予測できたものではないからだ。
「お前、もう帰れ! 仕事にならん。」
「何を言っている。手伝ってやるというのに。」
「いらんわい。」
「私の瞳の色は紫ではない。藤色だ。」
「モデルをしてくれるっていうのかよ。」
「ああ。何でもしてやる。」
「ヌードもか?」
「当麻もしてくれるならな。」
「するかよ。お前の裸なんか見飽きた。」
「私は飽きないぞ。」
「飽きろよな。」
減らず口の叩き合いである。だが、こんなことにも幸せを感じる征士からはついつい切り札の
笑顔が浮かぶ。
今までにこんなに喋ったことはない。
もっと話したい。そして、もっと相手のことを知りたい。
「なーにニヤニヤしてんだよ。」
絵の具を混ぜながら自分の瞳を覗き込む、その眼は優しい。どこまでも澄んでいて、いつも
見せつけられる越えられない線はなりを潜めている。征士は心持、眼を細めた。当麻の瞳孔が開く。
当麻の両手が塞がっているのをいいことに征士は、強引に抱き寄せ、キスをした。されるままで、
腰が砕けそうなほど甘くて長いキスに、当麻は意識を手放しそうになる。
いつもなら、ここで理性を取り戻して、征士から離れようとするところだ。
だが、今日は違う。当麻は力が抜けていくのと同時に征士に身を預けた。眼を閉じると、この世には
征士しかいないような気さえしてくる。征士はしっかり当麻を抱きとめた。
「初めて、キスをした気分だ。」
唇が離れて、当麻はうっとりとした声で囁いた。
「いつでも、初めての気分にさせてやる。」
征士ならしてくれちゃうだろう。何せ大天使なのだから。当麻は笑った。