あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね


正しい街


 帰ってくるといつもマンションの前で足を止めて4階の自分の部屋を見上げる。
 それはいわゆる一つの習慣で。
 一人暮らしの俺の部屋の窓は、どんなに夜遅くに帰ってきても明かりなんて点いてない。

 「さぶっ・・・・・・」

 冷たい風が玄関ホールを通り抜けて、俺は自分の身体を抱きしめる。
 でもすぐに思い直して、腕をおろして歩き出す。


 自分で抱きしめたその感触にすら寂しさを覚えて惨めだから。

 あの日、あの街を飛び出したのは気まぐれ。
 もともとあの街にいる必然性なんて、何もなかったのだから。
 思い立ちさえすれば、いつだって出ていくことなんてできたんだ。

 「一緒に住まないか?」

 その征士の誘いに、俺はとうとう頷けなかった。
 それまでも割合にお互いの部屋が近かったせいで、行き来してたけど、それと一緒に住むのは別問題だ。

 俺は征士のことを、その・・・・・・特別な意味で好きで、たぶん征士も同じように思っていて、それはわかっていた。
 なんどか、友達じゃ絶対しないようなキスもしたし、それ以上のことになりかけたこともある。

 でも、俺達は最後の一線は越えなかった。
 いや、俺が越えさせなかった。

 征士はいつだってある種の覚悟をしていたし、そしてその覚悟こそ、俺には足りないものだった。

 「冗談だろ。なんで俺がお前と暮らさなきゃいけないんだよ?」

 その時、俺は長い沈黙の後そう応えた。

 視線をあわせることすらせずに言った俺に、征士は何も言わなかった。


君が周りを無くした     

あたしはそれを無視した     


 そしてその次の日、俺はあの街を飛び出した。


 寒さにかじかむ手を擦りあわせてから、玄関の鍵を開ける。
 扉を薄く開けて身体を滑り込ませると、乱暴にブーツを脱ぎ捨てる。
 その左側が脱いだ勢いで飛んだけど気にしない。
 どうせここを使うのは俺だけ。
 他のスニーカーなんかも脱いだままそのまま放ってある。

 飛んだブーツは玄関の扉にぶつかって鈍い音をたてた。

 「暖房、暖房・・・・・・」

 俺はヒーターの前に直行する。
 スイッチをいれると、設定温度を最大にする。
 そして、その前のソファにどさっと腰をおろした。 

 俺は部屋が暖かくなるまではコートも脱がない。
 ちょっとでも寒いのなんてごめんだった。
 外を歩くときは仕方ないけど、部屋に戻ってきてまで寒さなんて味わいたくない。

 「・・・・・・・・」

 部屋が暖かくなるまでなんとなく手持ちぶさたで、ぼんやりと視線を彷徨わせる。
 ふと目の端に赤色のランプがうつった。
 留守電がはいってることを示すその赤色。
 電話は玄関から見えない位置に置いてあるので、今まで気づかなかった。

 むりやり電話線を伸ばしてそこに置いたのは、玄関から見える位置に置くと、ついつい帰ってくるなりそのランプを確認してしまうから。

 そんなのはまるで誰かの連絡を待ってるみたいで嫌だから。

 「めずらしぃじゃん。」

 ついつい口にだしてしまうのは、一人暮らしの性。
 元々誰かと話したりするのなんて嫌いだったけど、そんな俺でも一日のうちある程度の言葉は喋らないとやっていけないみたいだ。
 特に、最低限しか人付き合いしなくなってから、独り言が多くなった気がする。

 『伝言が一件あります。』

 機械的なその声。
 こういう機械の声ってたいてい女の声だけど、なんでだろ?
 俺はこういう感情の籠もらない高い声は嫌いだ。
 だからってわざわざそれを変えようとも思わないけど。

 『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

 テープから流れるのは沈黙。
 わずかに外の音が聞こえるから、どこか外から携帯でかけてきているらしい。

 俺はなんとなくそれを聞いていた。

 『・・・・・・・ピー。午後10時27分。』

 結局それは沈黙のまま、終わった。

 「ちぇっ。いたずらかよ。」

 俺が電話番号を教えてる奴らは本当にわずかで、そいつらは皆一人暮らしだから、一人暮らしの家に電話をかけるときの約束事を知っている。

 もし、相手が留守だったら必ず留守電に一言でもいれること。

 これって、なんか無言の約束事だよな。
 俺もあんまりないが、そいつらに電話するときはその約束事を守っている。

 昔はこんなこと気にしたこともなかったけど・・・・・・。

 俺はきっと今寂しいんだと思う。

 このことを認めるのさえ、随分とかかってしまったけれど。
 寂しさを知ってしまった俺は、ほんの少しだけ他人に優しくすることを覚えた。

 昔の俺はとても孤独で、そしてそれに気づいていなかった。
 それはある意味とても悲しいことだけど、同時に俺はとても傲慢に強くいられた。

 例えば部屋に一人でいること。
 それも誰にもそれを知られずに、たった一人その場にいること。

 その意味をかつての俺は一度だって深く考えたことなんてなかった。

 けれど俺は今、そのことを考えずにはいられない。

 『飼い慣らされたら、涙を覚悟しなくちゃいけない。』

 ふと、今の俺の数少ない知り合いの言葉を思い出した。

 その女は、仕事場の仲間に強引に連れてこられた店の女だった。
 身体にぴったりとするパンツスーツを着て、長い髪をルーズに上でまとめていた。

 どこか退廃的な赤いルージュをひいた唇からは、ゆったりとした低音が響いて、頭の痛くなるような高い声の女どもにうんざりしていた俺は、とりあえずそいつの話に耳をかたむける気になったのだった。

 『星の王子さまに、キツネはこう言ったのよ。』

 唐突な話のもっていきかたをする女だった。
 くだらない噂話の合間に、ふとそういう言葉をはく。
 その気まぐれさにどこか自分と同じものを覚えて、その後何回かその店に行った。

 女がその言葉をはいたのは、その何回目かの時だったと思う。

 女は俺の目を見つめ、それから俺のくわえた煙草の煙を追うように、視線をそらした。

 『あんた飼い慣らされちまったのね。』

 しばらくの沈黙の後、俺は『そうかもな』とだけ応えた。

 『よっぽどの女なんだねぇ、あんたを飼い慣らすなんてさ。』

 女は笑った。

 笑うと随分と印象の変わる女だった。
 夜の街の似合う風貌と雰囲気が、笑ったその瞬間だけ明るい昼間を感じさせる。

 本当は、もっと明るい場所が好きなのだと言っていた。

 『なんで飼い主から逃げてきたのさ。』

 『・・・・・・・・・』

 『ま、言いたくないんならしかたないけどね。』

 俺はくわえていた煙草を灰皿に押しつけた。
 新しい煙草を口にくわえると、女がライターで火をつけた。

 なんとなく、その動作が女に似つかわしくないような気がして、俺は女の顔を見た。

 『なぁに、驚いてんのさ?これがあたしのお仕事なわけ。』

 『・・・・・・男の煙草に火をつけるのが?』

 眉を寄せたそう言った俺に、女は曖昧に笑った。
 女は手にしたライターを静かにテーブルに置いた。

 『だけど、あんただって飼い慣らしたはずだよ。』

 『なんでそう思う?』

 『まだ、あんたがそいつに繋がってるのが見える。人一人の想いだけじゃ、そんなに長くは繋がっていられない。』

 俺は顔をしかめた。
 唇から離した煙草の煙が、まるでどこかに繋がっているような気がしたからだ。

 でも、そんなことは絶対にない。


君に涙を教えた    

あたしはそれも無視した    


 それはゆっくりと上へとのぼっていって、途中で曖昧に散ってしまうだけ。


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