トゥルルルルルル・・・・・・

 目の前の電話のベルが鳴ったとき、俺は軽く飛び上がったかもしれない。 
 記憶が昔に飛ぶとき、俺は全てに敏感になる。

 「・・・・・・はい。」

 受話器をとる。
 わずかにその声が震えた。

 『こんばんは。』

 その声はあの店の女だった。低音のその声は特徴があって、すぐにわかる。
 俺の肩の力が抜けた。

 「なんだ、あんたか。どうしたんだよ?」

 『悪かったわね、私で。あんたの忘れものを届けてあげようと思ったんだけど、やめようかしら。』

 電話の向こうで女が顔を顰めるのがわかって、思わず小さく笑った。

 「忘れ物?いや、覚えがないが?」

 記憶の糸をたぐっても、思いつかない。
 俺が思い出せないなら、それはありえるはずのないものだ。  『とにかく今下にいるから、早く来なさいよ。』

 「何?今来てんのか?だったらあがってくりゃいいだろ。コーヒーぐらい煎れてやるよ。」

 俺は少し驚いて、窓から外を覗いた。
 しかし、そこに人影らしきものはない。おそらく、玄関ホールまで入ってるんだろう。

 『あたし、惚れた男の部屋にしか入らない主義なのよ。』 

 女が電話の向こうで軽く笑った。

 「なんだ、あんた俺に惚れてんのかと思ってた。」

 こんな軽口も、絶対勘違いされる心配がないから言える。

 『まさか。あたしにとっちゃ、あんたは十万の薔薇のうちの一本に過ぎないわけ。』

 そういえば、この女は店に来る男達を薔薇なのだと言っていた。
 男を薔薇に例える感性は理解できないが、とにかく女はあの店に来る全ての客に同じように接していることは分かっていた。
 だからこそ、俺はあの女の前では余計な心配をする必要がなかったのだし。

 『さ、いつまで寒空の下に待たせるつもり?いいかげん凍えちゃうわよ。』

 「ったく、しかたねぇな。やっと暖まったとこだったのに。」

 そう応えつつ、まだコートも脱いでないことに気づく。
 なんとなく笑ってしまった。

 『じゃ、早くしてね。』

 女は電話を切った。
 俺もため息とともに受話器を置くと、玄関に向かう。

 ふと、どうして女が俺のアパートを知っているのだろうという疑問がわいた。

 「ま、直接会って訊けばいいか。」

 俺は玄関に散らばった靴の中から履きつぶしたスニーカーをひっかけると、部屋に鍵もかけずに外へでた。


 「・・・・・・・・征士」

 エレベーターから降りた俺の目の前に、見間違いようのないあいつがいた。
 オートロックのガラスのドアを挟んで、こちらを真っ直ぐに見ている。

 「久しぶりだな。」

 2年前より少しだけ頬の辺りが痩せた気がする。
 けれどほとんど変わらぬ姿と声・・・・・・真っ直ぐな瞳で、征士は目の前にいた。

 「当麻、開けてくれないか?」

 大して厚くもないガラスの向こう、俺の名前を呼ぶ征士。
 冬真っ盛りにコートも着ていないその姿と相まって、その存在はどこか現実感がない。

 俺は言われるままにドアの前に立った。
 内側からは自動ドアのそれが無音で開く。

 征士がそこから入ってきて俺を強く抱きしめても、俺はまだどこかでこれが夢のような気がしていた。

 あの日あの街を飛び出した俺に、こんな場面はもう二度と来ないはずだったから。

 「・・・・・・・・・どうして・・・・・・」

 やっと俺を抱きしめるその腕の感触が、この2年忘れられなかったものだと理解したとき、俺の口からでたのは、やっとそれだけだった。

 「一年考えた。お前が望むようにするべきなのか。」

 俺は耳元で聞こえるその声に、目を閉じた。

 「お互い気づかないふりをして忘れるのがいいのか。」

 征士は静かに続ける。
 その声は深夜2時過ぎの玄関ホールに染みていく。

 「答えはでなかった。当たり前だ。私達二人のことなのに、私一人で答えをだそうとしてでるわけがない。」

 征士はたまらないというように、俺の首筋に顔をうずめた。
 首筋にふれた頬が冷たくて、こいつはどんだけこの寒空の下立っていたのだろうと思う。

 この2年、寒い想いをしていたのは俺だけじゃなかったのだろうか。

 「・・・・・・・答えはでたのか?」

 俺と再び会って、その答えはでたのか?

 「もう、お前を離さない。」

 それが征士の答え。
 強くなった抱きしめる力が、それを裏付ける。

 じゃあ、俺の答えは?


  『飼い慣らされたら、涙を覚悟しなきゃいけない。』

  頭の中で女の声が聞こえた気がした。


 「・・・・・・きっと俺はお前のために泣くことになるんだろうな。」

 呟いた言葉は、あの女の好きな本の一節から。
 それが嫌で、俺は2年前のあの日あの街を飛び出した。

 俺は征士によって初めて教えられた涙を、その涙を流す覚悟をすることができなかった。

 そして涙を覚悟できない俺には、征士を、そして他の誰をも、愛する資格なんてなかったのだ。
 だからこそ、あの街から逃げ出した。

 俺は目を開けた。
 征士の肩越しに見る風景はいつもより正しく見えた。

 「お前の身体すごく冷たくなってる。暖まっていけよ。」

 「俺はここに来てから毎日、お前といたあの街を思い出してた。あそこの街並みや、空気や、そういうもの全部。」

 部屋はもう十分に暖かくなっていて、俺はコートを脱いだ。

 征士は玄関で靴を脱ぐと、俺のちらばった靴と一緒に揃えて並べた。文句こそ口にしないものの僅かに眉間に皺を寄せながら。相変わらずのその態度に、俺は口元に笑みが浮かぶのを押さえられなかった。

 部屋にカウチは一つしかなかったので、俺達は向かい合って床に座った。

 「たいした街じゃなかったと思うんだ。あんな街、どこにでもある。ちっとも特別でもなんでもない。」

 それでもあの街こそが、俺にとっては正しい街だったんだ。

 「でも、あそこにはお前がいたんだ。」

 結局それが全ての原因。
 俺にとっての正しさとは、征士がいるということに依存していたらしい。

 「俺はそれに気づくのに随分かかっちまった。こんな俺をお前は許してくれるのか?」

 問いかけはすでに確信だったけれど、それでも問わずにはいれない。
 いつも自信満々だった俺が、征士のことにだけは少し臆病になってしまう。

 これもすべて征士に俺が飼い慣らされちまった証拠。

 「許すも許さないも、最初から私はお前を責めるつもりなどない。むしろ、お前を行かせてしまった自分にこそ憤りを感じる。2年もの間、寂しい思いをさせた。」

 その応えがあんまり征士らしくて、声をたてて笑ってしまった。

 自分に人一倍厳しくて、俺が征士を好きだってちっとも疑ってなくって、そしてどうしようもなく俺に甘い。

 笑い過ぎて、ほんの少しだけ涙がでた。

 「もう、二度とお前を離さない。もう、お前のいない現実など許せない。」

 ああ、本当にあの女の行ったとおりだ。
 征士が俺を飼い慣らしたように、俺も征士を飼い慣らしてたんだ。

 「当麻、一緒に暮らそう。」


 2年越しのその誘いに、俺は真っ直ぐ征士の目を見たまま頷いた。


 これからどの街に俺達が住むのか、それはまだわからない。

 けれど、征士と俺が一緒に住む街・・・・・・・・

それこそが俺にとって唯一の『 正しい街 』



END/征×当話に戻る?

コメント:BAD ENDにしたかった・・・けどやはりHAPPY ENDに(汗)
ほら、小説の中ぐらい・・・ね?





十万の薔薇