「俺、天使のトウマ。お前のこと『幸せ』にするよ。」

 その言葉をトウマが言った時、おそらく一番冷静だったのは言われた征士本人だっただろう。
 いや、だからと言って征士が何も動揺しなかったわけではない。周りがそれを上回る反応を示したからだった。

 「きゃーあの娘、伊達さんにプロポーズしてるぅ〜!」
 「うおーーー羨ましぃぞーーーあんな可愛い娘にーーー!」

 という、どこか的のずれた学生らしい男女の悲鳴や、

 「天使・・・・・・可哀相に、あんな可愛いのに頭が少し・・・・・」
 「綺麗に生まれると、少し頭が弱いことが多いというしねぇ。」

 という、常識的(?)なおばさま方のひそひそとは言い難い声、

 「なんかのイベントかぁ?まあ、クリスマスだしなぁ。新人タレントとかだろな。おい、サインもらっとくか?」
 「そうだね。絶対売れるって、あの二人なら。あとで価値でるよ、きっと。」

 という、一番まともとも言えるカップルの反応、などなど・・・・・。

 とにかくそれらの騒ぎの中では、征士の動揺は本当に小さなものだった。

 (あれは私の見間違いではなかったのだな。)

 実はほんの数十分前、征士はトウマが天から落ちてきたのを目撃していた。トウマが落ちた場所にたった一軒建っていた大きな屋敷は、伊達家のものだったのだ。夕刊をとりにきた征士はふと空から一直線に落ちてくる光に、家の中へ戻ろうとする足を止めたのだった。
 征士の目の前に落ちてきたトウマは、わずかに光を身に纏っていて、その背中の真っ白な翼とあいまって、本当に美しかった。
 征士は我を忘れて魅入ってしまい、そんな征士に気付くことなく、トウマは目の前でふらふらと立ち上がると翼を消した。その姿はどこか頼りなげで、もし征士とトウマの間に塀がなかったら、征士は迷わず手をさしのべていただろう。

 (天使とはもっと皆強くて傲慢なものだと思っていたが。)

 実際、征士のその認識はそれほど間違っていないのだが、どういうわけか、征士の頭には最初のトウマの頼りなげな様子がインプットされてしまったようだ。しかもその時のトウマの乱暴な口調の独り言は、幸い(かどうかわからないが)征士の耳に届いていなかったようだ。

 征士は初めて目にする天使と思われるそれに、驚くよりむしろ、強い関心を覚えた。

 トウマが自分を見つめる視線に気付いて振り向いた時、征士は咄嗟に隠れてしまったが、トウマが街中に向かって歩き出すと、どうしても気になってその後をこっそりつけてきたのである。
 そして、駅前できょろきょろと辺りを見回すトウマに声をかけようかどうしようか悩んでいたところ、トウマが男たちにからまれているのを見て慌てて助けに入ったのだった。

 「俺さ、ちょっと事情があって、てっとり早くお前のこと『幸せ』にしなきゃなんないんだ。」

 トウマは征士の手を握ったまま、ぺらぺらと話し続ける。

 しかし、そんなトウマの言葉を征士はほとんど聞いていなかった。あらためて間近で見たトウマは、今まで見たどんなものより綺麗で、特にその瞳の不思議な蒼い色に吸い込まれるように征士はトウマを見つめてしまう。

 「でさ、お前ってば今何か欲しいものとかあるか?もしくはなりたいもの、とかさ?」

 対するトウマも、とにかく自分の追試を終わらせることで頭が一杯になっていて、征士が自分に願いを言ってくれるのを目を輝かせて待っている。

 夢中になると他が目に入らなくなるという一点において、二人はとても似ていた。

 「・・・・・・ついてこい。」

 それでも、さすがに征士は人間としての一般的な常識を持ち合わせていたので、いつのまにか自分達の周りを囲んでいる人垣に気付くと、トウマの手を引いてそこから脱出した。
 とたんに、周囲から不満の声があがるが、そんなものは無視する。

 トウマはその時初めて自分達を取り囲んでいた人間に気付き、そしてその誰一人として征士の足元にも及ばない不細工(トウマにとって)だと確認すると、心の中でにんまりと笑った。

 (あー、やっぱ俺ってば日ごろの行いがいいのかなぁ〜。不細工ばっかのこの街で、こんな綺麗な人間をこんなに早く見つけられちゃうなんてさ。)

 もともと何故こんな追試を受ける事になったのかは、どうやら完璧にトウマの頭から追いやられているようだ。
 天才というのは、自分の都合の良いように、物事を解釈できる者のことを言うのだろうか?

 「トウマ。」

 ふいに名前を呼ばれて、辺りをキョロキョロと見回していたトウマはびっくりして立ち止まってしまった。
 征士によって初めて呼ばれた自分の名は、聞きなれなくて、それでいてなんだかくすぐったいような不思議な気持ちを起こさせたからだった。
 今までちっとも気にならなかった征士につかまれた右手が、途端に気になってトウマは思わずその手を払ってしまった。

 瞬間、トウマを見つめる征士の瞳に悲しそうな色が浮かんで、トウマの胸がつきんと痛んだ。

 「すまん。その、人目を集め過ぎていたのでな。・・・・・・とりあえず、私の家へ行こうと思うのだがいいだろうか?」

 征士は自分が半ば無理矢理トウマを連れてきてしまったことに気付き、トウマの了承を得ようと思ったのだった。そうしようとした矢先に手を振り払われたので、その声がわずかに強ばる。
 そして、その声の強ばりに気付き、トウマもまた身体を固めてしまった。

 元来、天使というものは人間の負の感情に敏感である。特に、エネルギーの減退型の負の感情。つまり悲しみや不安といった感情に特に敏感で、人間を悲しませたり不安にさせたりしてしまうと、非常に罪悪感を覚える生き物である。

 途端に、当麻の大きな瞳が潤んだ。

 「ト、トウマ・・・・・・!」

 突然言葉もなく瞳を潤ませたトウマに、征士は慌てる。

 「そんなに嫌だったのか・・・・・・すまないことをした。」

 征士はトウマを慰めるように手を伸ばそうとして、先程手を振り払われた事を思い出し、その手を途中で止めた。

 トウマが具体的に何を嫌がって泣いているのか、征士の家に行くのが嫌なのか、それとも征士に手をつかまれていたこと自体が嫌だったのか、征士にはわからなかったが、とにかく今トウマに触れるのは躊躇われた。
 しかし、宙で止まったその手が身体の横に降ろされてきつく握り締められるのを見ると、トウマの方はさらにたまらなくなる。自分を気遣ってくれた征士を、傷つけてしまったと思ったのだ。
 トウマの潤んだ瞳からはぽろぽろと涙が零れ始めて、それはさらに征士を慌てさせる。

 こうなったら、もう悪循環である。

 「すまん。・・・・・・その、お前のいいようにするから、泣き止んではくれないだろうか?」

 触れることもできずに、自分より頭一つ分ばかり小さな天使を前に、征士は途方にくれてしまう。泣く子をあやす方法すら知らない自分が、泣く天使をどうやったら慰められるかなんて知るはずもない、と征士は真剣に思った。

 そんな征士に、トウマは涙を乱暴に腕でぬぐうと、首を横に振った。

 「・・・・・・嫌じゃない。」

 トウマはやっと小さな声でそれだけ言うと、必死に征士を見上げてくる。その瞳にはまだ涙がたくさん溜まっていて、征士の次の一言次第では、再びそこから滴が溢れるのは必定だった。
 征士はそのトウマの潤んだ瞳と見上げてくる様子に、くらくらしながら、必死に頭を働かせた。

 「その・・・・・・それは、我が家に来るのは嫌ではないということだろうか?」

 なるべく優しい声で尋ねれば、トウマはこくりと肯く。

 「そうか。」

 征士は心底ほっとして、わずかに口元に笑みを浮かべた。

 その瞬間、トウマの顔がぱあっと明るくなった。

 トウマは征士の笑みが単純に嬉しかったのだ。
 その感情が、単に人間を喜ばせた時に味わう天使の喜び以上のものだったことに、けれど滅多に人間を喜ばせた事のない(全く天使にあるまじきことだが)トウマが気付くわけもなく、いつもの調子を取り戻したトウマはぺらぺらと話し始める。

 「うん。俺、お前のこと『幸せ』にするって決めたんだから。お前が『幸せ』になるまで、俺、ひっついて離れないからな!」

 その変わりようは、いわゆる『泣いたカラスがもう笑っている』というやつで、征士は呆れるというよりも、びっくりしてしまった。

 「さ、早く行こ

 トウマは、先刻自らはらった征士の左手を再び握ると、妙なスキップをしながらぐいぐいと征士を引っ張る。
 思わずそれに引きずられるような形になりながら、とりあえずトウマの機嫌が直ったことにほっとしつつ、征士はトウマが進もうとした方向とは違う方を指差した。

 「私の家はあっちだ。」

 そう言って、トウマに一方的に握られた手をしっかりと握りかえすと、自分の家に向かって歩き出した。

 

 「あれ、ここ・・・・・・」

 トウマは自分の連れてこられた場所に見覚えがあるのに気付いた。

 「どうした?」

 征士はトウマが降りてきたところを見ていたのを秘密にした。思わず追いかけてきてしまったなどという、恥ずかしいことを、トウマには知られたくなかったからだ。

 「うん。すっごい偶然。ここ、俺がシンに落とされたとこだったから。」

 トウマは何の疑いもなく、にこにこと征士を見上げてくる。
 その無邪気さに、征士はわずかに罪悪感を感じる。

 けれど、征士はそんなことでぼろをだすような男ではなかった。

 「どうやら、私たちは随分と縁があるようだな。」

 そう応えてやれば、トウマは本当に嬉しそうに肯いている。
 その様子に、トウマもまた、自分のことを憎からず思っていることを確信し、征士は決心を固めた。

 (・・・・・・決めた。絶対トウマを私のものにする。)

 

 こうして、微妙に思惑の食い違った二人の一週間が始まったのだった。

 

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